注目トピックスch

国内から海外まで、様々なジャンルで注目されているトピックをネットの声と共に紹介致します。

さよなら人類


久松 史奈(ひさまつ ふみな、1971年3月6日 - )は日本の歌手。 愛知県名古屋市出身。名古屋短期大学付属高等学校(現:桜花学園高等学校)卒[要出典]。高校生の時、ヤマハ音楽振興会(以下、ヤマハ。現:ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)主催「ティーンズミュージックフェスティバ…
14キロバイト (1,140 語) - 2023年11月12日 (日) 05:00

(出典 i.ytimg.com)


この人に注目しますね~

1 湛然 ★ :2024/05/12(日) 15:57:33.16 ID:fbHRIo/q9.net
久々のリリース!!!
聴いてねー!!!
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久松史奈の新作「さよなら人類」必聴のパンク・バージョン!!柳原陽一郎が参加!!
2024年5月15日デジタルリリース!!

西川進との共同プロデュースによる至極のカバー曲!
作者である柳原陽一郎がキーボード&コーラスで参加!
「さよなら人類」はパンクだ!と言い切った久松史奈の真骨頂!


fuminahisamatsu
https://www.instagram.com/fuminahisamatsu/p/C6u3SWTxsWn/
https://scontent-nrt1-1.cdninstagram.com/v/t51.29350-15/442345389_409049472021634_447094981672579740_n.jpg?stp=dst-jpg_e35_s750x750_sh0.08&efg=eyJ2ZW5jb2RlX3RhZyI6ImltYWdlX3VybGdlbi4xMjgweDEyODAuc2RyLmYyOTM1MCJ9&_nc_ht=scontent-nrt1-1.cdninstagram.com&_nc_cat=110&_nc_ohc=06notHQ01cAQ7kNvgGgBwGX&edm=ANTKIIoBAAAA&ccb=7-5&oh=00_AYAXH5j0kmfrG_VHGgOgadJ3D_8VYAd_Au7Aor9p5qbbUg&oe=66464FE1&_nc_sid=cf751b&.jpg


Rooftop
https://rooftop1976.com/news/2024/05/09110000.php

(出典 rooftop1976.com)

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石川 浩司(いしかわ こうじ、1961年7月3日 - )は、日本のシンガーソングライター、空き缶収集家。東京農業大学第二高等学校卒業、和光大学中退。たま時代の通称はたまのランニング。 父は国家公務員(キャリア官僚)、母は上皇后美智子の学友という家庭に長男(他に弟が二人)として出生。生まれは東京だが…
20キロバイト (2,725 語) - 2023年7月4日 (火) 18:15

(出典 musicspot-satone.com)


この人の印象が強いですね~

1 湛然 ★ :2023/08/24(木) 06:16:16.58 ID:WDfcc9EB9.net
元たま・石川浩司「解散3日後にはヨーロッパツアーに行ってました」『さよなら人類』でNHK紅白出場のたま「解散の真相」
8/17(木) 7:32 双葉社 THE CHANGE
https://news.yahoo.co.jp/articles/fa9a6bc731ddd85a1fe6122e023c7ffc0a4ad2fe

(出典 newsatcl-pctr.c.yimg.jp)



◆いきなり忙しくなったので、とりあえず事務所に入った

(※中略)

「いきなりすごく忙しくなっちゃって、最初はレコード会社との契約とかそういうこともよく分からなかったので、とりあえず知り合いが所属している事務所に入ったんです。P.C.Mという『筋肉少女帯』とか『GO-BANG'S』とか『有頂天』とか、そういうバンドがいた事務所です。

 でも、契約期間の2年間所属したあと、もう独立して自分たちで有限会社を作っちゃって、そこからセルフマネージメントでやり始めたんですよ。当時ネットもなかったから、途中に悪意がなくても、伝言ゲームのように人を全員回っていくうちに、思っていたことと違う結果になることが多かったんです。
 たとえばCDのジャケットをこうしたいみたいなのがあっても、反映されなかったり……。“自分のしたいことだけをしたい”というのがメンバー間で共通してあったんですね」

 特殊な2年間を過ごしたあと、メンバーは徐々に元の生活に戻っていったという。

「僕らもあのとき10代だったら、そのまま大人に言われて変になってたかもしれないですけど、売れたとき年齢的には20代後半、もう30に近かったので、こんなのに浮かれるのはやめようと。最初からこれは一過性のものだから、今“わーっ”て言ってるけど、本来そういう音楽じゃないし、と、そこは結構メンバー内で確認し合っていました。

 “やりたくないことはあまりやらずにいこう”とか、“ここはちょっと妥協してやっとくか”という、そういうのもバランスをとりながら、“落ち着こう”というのを、常にメンバー同士で確認し合ってやっていたんです。

 『イカ天』に出る前にもみんな『たま』をやりながらソロもやってたし、他のユニットみたいなのもやっていた。それが元に戻ったような感じでやっていたら、だんだん『たま』よりも他のバンドとかが忙しくなって、メンバー同士のスケジュールが合わなくなっちゃったんですよ」

◆メンバー脱退、バンド解散

 メジャーデビュー5年目の1995年にキーボードの柳原幼一郎がソロ活動のために脱退、その後は知久寿焼、滝本晃司と3人で活動を続けた。

「もともと“商業的に売れよう”というのはなかったですが、売れたらお金が入るから他の仕事をしなくていいので、バイトもやめられたし、それはよかったんです。

 でも、セルフマネージメントだと、やっぱり宣伝とかあんまり積極的に動く人がいない。そうなると、テレビとかメディアとかもあんまり出なくなりますよね。普通はレコード会社とか事務所の人が、そういうところに“うちのバンドどうですか”みたいなのをプロモーションするんですけど、そういう人が誰もいなくて(笑)。メンバーも、“いいよ別に出たいわけじゃないから”って、逆にそっちの方がやりたいことだったという感じでしたね。

 当時は最終的に八王子に事務所とスタジオを持って、事務員とかも一応雇ってたんです。でも『たま』の仕事をあんまりやれなくなると経済的にはね、そういう人たちに給料も払わなくちゃいけないし、スタジオとか事務所の家賃とかもあるし、そういうのはちょっと厳しくなっていきましたね」

 2003年に「たま」は解散し、メンバーそれぞれの活動に入る。

「そうやって他のバンドの活動が忙しくなったってことがあって、『たま』は解散したんですけど、僕自身は解散した3日後くらいには『パスカルズ』のヨーロッパツアーに行ってしまったんで、解散の感傷に浸っている暇なんか全然なくて、常に次にやりたいことが忙しくてっていう感じでした。

 最初に抜けた柳原は、『たま』とは違うソロ活動をする覚悟があったから、けっこう頑としてその後もメンバーと絡むセッションとかライブはしてないんですけど、メンバー間の確執とかでは全然なくて、ベースの滝本とは8月にも一緒に2マンライブを京都で昼夜公演にやったりしますし、知久とは今も『パスカルズ』で一緒です」

(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)

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